おなかが空いたら足から食べて

ライターによるいろいろなことです

ナンパ師の彼と自傷行為。ポン酢の瓶は暴力か優しさか。

多くのナンパ師が言うように「ナンパは自傷行為」というのには同意だ。ナンパの自傷とは、生きている実感のため、古い傷をなぞり新しい傷をつけるのだと、なにかの本で読んだ。おそらくわたしが会ったナンパ師も、ナンパをすることで自傷していた。ナンパのやり方を若い男の子たちに教えることで、彼らの自傷行為を手助け、彼らの古い傷を癒し、癒すふりをしながら当たらしい傷をつけていた。
 

数年前の池袋。

そのナンパ師は、とても魅力的な男性だった。

出会ったのは、友人の美しいイケメンインテリヒモ男の家に遊びに行った時だ。そこにはとても可愛らしい女の子が居合わせていた。「東京についたばかり。わたし、メンヘラなの」とその子は言った。そうだろうなという感じで、その子はうつむき加減で身を小さくしながら、上目遣いであたりを見回し、全身で「愛してほしい」と訴えていた。痛々しいほどに。
そのとなりでひとりの男が微笑んでいた。ひかえめな仕草、あまり動きのない表情、長い前髪に目が隠れ、ときどき首を傾げてはにかんだように笑う。背の高い男性だった。とっさにその邪魔っけな前髪をかきあげてみたいと思うほど魅力的な人だ。素顔を見たい。

「ナンパ師」です。

と彼は名乗った。「ナンパ」という言葉が似合わないほど綺麗な男性だ。表情の変化が薄いので感情が見えない。
美しいヒモ男と綺麗なナンパ師と可愛らしいメンヘラに挟まれ、わたしはヒモ男に「穫れたてのジャガイモをもらったから食べて欲しいな」とバターをかけたほくほくの北海道の男爵芋を振る舞われた。さすがヒモだ。ものすごく安上がりな美味しい料理。もらいものの男爵芋に、マーガリンではなくバターを乗せる。

「最近したナンパの話」と彼は言った。淡々と喋るので、感情が見えない人だ。

年上の女性をナンパして彼女の家にあがり、彼女が求めるままにベッドで彼女を殴り、終わったあとに「腫れてはたいへんだから」と冷蔵庫からポン酢の瓶を持ってきて女性の頬を冷やしてあげたという話だ。

“ポン酢”という、とたんに生活感のある生々しいワードは引力があった。けれど、そのポン酢の瓶で女性の頬を冷やす行為は、優しさなのか、礼儀なのか、ただの物理的対処なのか、優しさのふりをした罠なのか、なんだかわからなかった。

わたしの横で「メンヘラなの」と言った女の子が上目遣いで見つめる。全身からあふれる「わたしもその女になりたい」という願望。まばたきのたびに睫毛の音がしそうなほど、訴えている。そして時々、天然のはちみつリップを小指で唇に塗り、ぷるぷると震わせていた。
ナンパ師は気にもとめていないようすだったけれど、わたしは「その気になればこのナンパ師は彼女を簡単に抱くだろう。そして簡単に捨てるだろう」と予感がしていた。いや、捨てるという概念もないかもしれないくらい、朝のパンの残りくずを窓辺のすずめにあげるような気のなさで、ナンパ師は彼女を抱けるだろう気がした。はじめて会った女性に殴らせることを要求させられるこの男性は。

「そんな感じでした」とお茶を飲むナンパ師。あいかわらず表情はない。

その彼も女の子もついでにヒモの友人も消えそうな雰囲気をまとっているので、わたしは反射的になんとかその場に生命を吹きこもうと、自分の心の扉を意識的に全開にした。そうしないとメンヘラの女の子はきっと自分がなにを望んだのかもわからないまま彼に抱かれるだろうという気がした。そして抱かれたことを良い思い出として、自尊心を慰める満足感とともに、傷ついたことにも気づかず、知らない間に自分を消費するだろう。そりゃ本人達の勝手ではあるけれど、わたしの前で消費はごめんです。だからわたしはその澱んだ欲望たちを打ち消すために健康的に振る舞ったのだけれど、どこかでわかってもいた。わたしが放つ無理やりの生命力や、明るさや、天真爛漫さや、そういった健康的なものが彼を傷つける暴力ともなるだろうことを、直観的にだけど感じてもいた。

わたしが押したり引いたりすると、彼女は簡単にわたしに同調してきた。まばたきは減り、唇を意識しなくなり、顔を崩して笑った。部屋の澱みがひとつとれた気がした。
しかしナンパ師の彼の方は、わたしがなにをしても静かに笑うだけ。こんなに天真爛漫さの押し売りをしたことは人生でそんなに無いぞってくらい押し売った。嘘の天真爛漫さでは彼に届かないこともわかっていたから、天然の天真爛漫さを、自分のなかを探し求めて、かき集めて、その空間に放った。メンヘラの彼女とわたしが仲良くなっていくのを見ながら、彼は最後まで静かに笑っていた。

帰り際。ヒモ男の家から出ると彼女は「銭湯行こうかなあ、お風呂はいりたい」と呟いた。わたしは駅に向かうことにした。ナンパ師の彼は、歩いて自宅に帰るという。
「さようなら」を言おうとすると、彼がマフラーの隙間からじっと私を見つめた。そしてちょっと困ったみたいに眉毛をさげて、小さく笑った。

「きみって、生きてるって感じだね」

諦めたみたいに、吹き出したみたいに言った。はじめて彼が感情を見せたように感じた、瞬間だった。

わたしは彼のその「きみのその態度に免じて僕も心を開いてみようか」というような言い方が頭にきて、大きく元気に「そうですね!生きてますから!」と返した。そうやって放つ健康的な生命力が彼に対する暴力だということもわかっていて、思わず言ってしまった。でも彼はその時はもう感情をひっこめていて、目を細めたままそらした。
たぶん彼は、自分の存在性の薄さをわかってすべて引き受けているんだ。そんな人に生命力をぶつけたって刺さるわけがない。むしろたぶん、刺してはいけない。彼はたぶん刺し傷がついても、わたしに向かって刺し返すことはない。そのまま傷をほおっておくか、もっと別の誰かに傷を向ける。さっきのメンヘラの女の子のような、傷をつけられても文句を言わないだろう人に。
 

 

「ナンパは自傷行為だ」と多くのナンパ師が言う。女性を消費することで、自傷し、生きている実感を得ているのだと。

ちまたにはナンパ師が溢れ、ナンパ塾を開いてナンパ師を増やす光景も多く見かけた。さらにナンパ師たちは「ナンパを教えることは自傷行為に対する心理療法」とまで言ったりもしている。そうかもしれない。男性の自傷行為をなぐさめるため、彼は、若い男性たちにナンパを教える。

しかし傷をなめると血の味がするはずだ。傷の舐め合い。きっとナンパ師の彼はその血を噛み締める。癒しながら、若い男達のコンプレックスを飲み込む行為は、彼自身を自傷しているようにも感じる。
しかも彼の唾液には毒がはいっていて、傷をなめてもらった若い男の子たちはもともとの傷を癒してもらうふりをしながら当たらしい傷をつけられ毒を塗り込まれる。このナンパ師は危険だ。魅力的だけれど、もう、会うこともないだろう、と信じたい。

結局、その後の彼のことは知らない。ナンパを続けているという話もきいた。想像してみるけれど、女性に声をかける彼は爽やかな笑顔でどこか空虚な背景をまとっている、そんな光景しか浮かばなかった。
 

 

最近、仕事で池袋に行くことが多いけれど、駅のなかで声をかけられやすい場所が2ヶ所ほどある(声をやたらかけられやすいファッションもある。なんてわかりやすいんだー)。声をかけて来る人は年齢も雰囲気もまちまちでおそらく20代前半のこともあれば40代以上のこともある。彼らの目的が、金か、ゲームか、ご飯か、暇潰しか、勧誘か、自傷か、なんだか知らないけど、声をかけられるたびまた声をかけている誰かを見かけるたび、あのナンパ師の彼を思い出す。そして、今ここで声をかけてきた人に対して、健康的な生命力という暴力でもって対向していいのかを迷う。

あれから何年も経ち、わたしは生命力以外で彼らのような存在と対することを学んだ。それが良いか悪いかは一概に言えないけれど、とにかく、ほかの手段を知った。
ポン酢の瓶で、殴った女性の頬を冷やした彼。その行為が優しさなのか礼儀なのかただの物理的対処なのか、優しさのふりをした罠なのか、ほかの何かか、確認しなかったわたしには、健康的な生命力で対峙することが暴力だということは気づいていても、そうやって殴った痕を冷やす方法を知らなかった。そもそも冷やす気もなかった。ただ暴力をふるって終わりだ。

今、道行く女性たちを巻き込みながら、ナンパをする男性たちは自傷と折り合おうとしているのかもしれないとふと想像する。これは主語が「男性」だけれど、べつに「女性」でも「無性」でもあると思う、自分の自傷にそうとは気づかれず他人をまきこむことが。まきこまれる方としてはいい迷惑でもある。でも、彼らは自傷を続けたいんだろうか。わからない。
「もしこれが彼の自傷行為だったら」と考えると、声をかけられた時にどう答えればいいのか迷う。今さらだけど、迷う。健康的な生命力の暴力。

 

noteより転送

「人殺し」と叩かれた加害者家族(仮)の恋人と。

こいび『現代ビジネス』の記事を読んで、思い出すことがあったので書くことにした。とくに誰にも話していなかった話だ。

 

gendai.ismedia.jp

 

数年前、わたしは社会問題の取材をすることが多くて殺人事件もよく扱った。そのときは被害者家族の方が距離が近かったけれど、その後、はからずも加害者家族と身近になった、その時のことです。

 

※鬱や、犯罪に関わることを書きます。
※苦手な方は読むのはご注意ください。

 

    * * *

恋人ができたばかりだった。彼は野心家で、仕事が命で、どんな手を使ってものし上がってやる、というふうな人だった。過去に鬱病の治療をしていたらしいけれど、症状は軽く職場復帰も早かったらしい。鬱のきっかけについては「ちょっといろいろあってね」と多くは語らなかったけれど「今は上司の支えで仕事にも戻れたし、焦らず結果を出していくよ」と意気込んでいた。互いの仕事が多忙で集中していたこともあり、わたしは彼に自分が事件取材を仕事にしていることは説明していなくて、「まあそのうち言おう」くらいに思っていた。

けれど、付き合い始めてしばらくすると、彼の様子がおかしいことに気づいた。

彼の家に泊まりに行くことが多かったのだけれど、夜中、突然唸り声をあげて飛び起きるのだ。こっちも驚いて起きると、背中を向けて汗だくで震えている。「どうしたの?」と聞いても返事がない。よくわからないまま背中をさすったら、そのうち静かに眠っていった。
また、深夜にふと目覚めると、真っ暗な中でよく携帯を見ていた。2ちゃんねるらしき掲示板サイトに見えた。「眠れないの?」と聞くと「んー」と背を向けられたので、その時はそれ以上聞かなかったけれど、一心不乱に見ていた。
そして、ある夜のこと。いつものように飛び起きてベッドの縁に腰掛け震えているので、わたしも起き上がって、後ろから彼の背中をさすっていた。彼は振り向かず、これもいつものように暗闇で携帯を取り出し読み始めた。わたしはどうしたらいいかわからずずっと彼の背中に触れていたのだけれど、心配しているのが伝わったのか、聞いて欲しかったのか、ふと彼が言った。

「俺のことは俺の名前でネット検索すればわかる」

なんだかヒリッとした声だったので、わたしはとっさに「ふーん」と気の無い返事をして、その言葉はなかったことにした。そもそも、彼が話さないことをネットで読む意味がわからない。目の前に本人がいるのに。でもわざわざそう言ったってことは読んで欲しいってことなのかな……。しばらく悩んで、数日後、ネットで彼の名前を検索した。

 

罵詈雑言の嵐だった。
「人殺し」「殺人鬼」「死ね」。
とくに2ちゃんねるがひどかった。罵倒の言葉のほか、職場、交友関係などの個人情報が晒されていた。どうやら、彼の家族のひとりが数年前のある死亡事件の関係者らしい。その事件はあまりに不審な死だったので当時ワイドショーでかなり話題になっていたようだ。ちょうどその時期に日本にいなかったので、その事件のことはまったく知らなかったけれど。
でも彼の家族のひとりはあくまで「関係者」で、それは殺人ではなく不審死だ。
それなのにネットには攻撃的な悪意の言葉が満ちていた。彼本人も「殺人鬼」と書きたてられ、完全なデマもたくさんあった。その書き込みは、事件から数年経っても更新され続けている。それを彼は夜毎に電気を消した暗闇の中、ひとり読んでいるのだ。

「ネットで検索すればわかる」と言ったのはこのこと?でも「わかる」ってどういうこと?書かれていることは本当だってこと?それとも、自分がなんで毎夜うなされているかがわかるって?もしくは他人が自分をどう見ているかわかるってことなの? 説明することも釈明することもなく「わかる」とだけ言った彼を思い返すと、なんかもうぜんぶ諦めているような気もした。わたしは、彼の「わかる」は「ネットを検索したら俺が世間的にどう思われている人間なのかわかるから、嫌なら離れればいいよ」というふうに解釈した。

ネットで検索したことは彼には言わなかった。彼もわたしに確認しなかった。何事もないように日々を過ごし、汗だくで飛び起きた夜は背中に手を当てることが続いた。
ただ、一度だけ思いきって、つとめてなんでもないことのように「携帯見てたら目が覚めちゃうよ〜」と言ったことがある。けれど「うーん」と返されただけで、どうしたらいいかわからなくて、けっきょく彼にくっついて眠った。

そんな彼が、自分から事件について触れたことがある。たまたま家族の話になった時に「あの人は悪いとこもあるけど、そんなに酷いことをする人じゃないと思うんだけどなぁ」とだけ言った。……ああ、そっか、彼にはわからないんだ。家族のことは信じたいし信じてるけど、本人じゃないから100%真実はわからないし、起きたことの引き受け方がわからないんだ。だから「やってないから」と罵声を無視することもできず、毎晩ネットを見てしまう。

 

彼の症状はどんどん悪くなっていった。
深夜2時になんの脈絡もなく人生を悲観する長文メールを送ってくることはざらで、ときどき信じられないほど高額の散財をし(給料3ヶ月分以上はあったと思う)、部下へ暴力を振るい(ケガをさせるほどではなかったけれど)、部屋でわたしが移動した後ろから掃除された。少しでも思い通りにならないと癇癪を起こし、レストランで食事をしている時に突然「食べるのが遅い!」と怒鳴って、針のムシロのような雰囲気の中で完食させられたこともある。
映画デートの時は死ぬかと思った。予約した映画の時間に少し遅れそうだったのに、乗った車は軽く渋滞にはまっていた。運転席の彼がイライラしているのがわかったので「最初の10分くらいは予告だからヨユーだよー」と言ったけれど、彼の苛立ちは収まらず、突然ほとんど車のいなかった反対車線に飛び出るとそのまますごいスピードで走った。赤信号をぶっちぎっての逆走。一台でも車が来たら絶対死ぬ。呆然として、体が動かなくて、ただ小さな声で「間に合うよ……」と言うのが精一杯だった。けっきょく、映画の開始時間より前に着くことはできた。すると彼は真顔で「な、間に合っただろ」と言った。さすがに、やばい、と思った。
それでも手を上げられたことは一度もなかったし、基本的にはずっと優しかった。

ちょうどその頃、仲の良い事件取材記者の先輩と飲んでいた時。先輩が当のその事件を追っていると知った。亡くなった方の家族に取材を重ねているところで、いつか本にしたいのだという。わたしは彼と付き合っていることを、先輩に言えなかった。

 

時間がすぎていった。まだ自分の仕事のことは彼に打ち明けられないままだった。

彼をめぐる状況はどんどん悪くなっていく。彼のほかの家族たちも、それぞれ病気やらなんやらと大変なことが重なってきていた。比例するように彼の潔癖症は度を増して、わたしは彼の家に入れてもらえなくなった。自分のテリトリーに他人の髪の毛一本入ることが許せない。その代わり、外出先はぐちゃぐちゃに汚しても気にならない。わたしから連絡をしてはダメで、彼が連絡をくれた時には最短で飛んでいくというふうになった。連絡の頻度は徐々に減っていき、時々、思い出したようにメールか電話がくる。まるでコップの水が溢れれば連絡をする、という感じ。穏やかな時もあれば、めちゃくちゃな時もあった。

ある日、中華料理を食べにいった。赤坂のかなり高級な中華で、彼は「久しぶりだから奮発した」と嬉しそうだった。調子が良さそうだったし、すごく楽しかった。もしかしたらこのまま良くなるんじゃない?なんて希望を感じたほどだ。
でもその帰り道、信号を渡っているとど真ん中で彼が立ち止まった。「どうしたの?赤になっちゃうよ?」。声をかけると、小さな声で「足が動かない、手を繋いで」と囁いた。だらんと降りた手をとると、小刻みにカタカタと震えていた。「触れば……少しよくなる」。彼が言ったとおり震えは少しずつおさまってくる。その震えが完全に止まってから、大量のクラクションに急き立てられながら赤信号の横断歩道を手を繋いでゆっくり渡った。なんかその時の気持ちはもう思い出せないんだけれど、信号の赤とかオフィスビルの明かりとか飲食店の看板がやたらピカピカ光っていたのに、横断歩道だけ暗かったな。

その後、彼は家からほぼ出なくなり、わたしにも会いたがらなくなり、コミュニケーションはメールか電話だけになって、それも少しずつ減っていき、ついに連絡は来なくなった。風の噂で、彼が休職したと聞いた。

 

最近、彼から連絡があった。久々に会いたいというので、迷ったけれど食事に行った。
会うと思いのほか元気そうだ。鬱の病状が良くなり仕事に復帰したそうだ。復帰といっても子会社の事務職で、それはつまり彼のずっとやりたがっていた仕事ではなかったし、出世の道は断たれたということだった。あの野心家の彼がと思うと、職場での寂しげなスーツの背中を想像してしまいなんとも言えない気持ちになる。けれど「仕事はそれなりに楽しいよ」と笑っていたのは少し救われた。
食事は楽しくて、彼は「会えて良かった」とすごく喜んでくれて、わたしは彼から離れてしまった申し訳なさと今会って笑ってくれる感謝でいっぱいだった。当時の話はもちろん事件の話もしなかった。最近あったこととか、面白い本のこととか、ちょっとした兄弟げんかのエピソードなんかを聞いて笑った。

別れ際。向こうから「俺、あの時期のことほとんど覚えてないんだよね」と言ってきた。蒸し返したら怒られるかなぁと思いながらも「車で反対車線を逆走した事も覚えてない?」と聞くと、「え〜それ俺?まぁあの時期ならやってたかもなぁ」と困った顔で笑われた。むしろ「俺は思い出せないんだけど、お前が覚えてくれてるならいい。覚えてくれてる人がいるのはなんか救われる」と言われた。正直その気持ちにはうまく共感できなかったし、きっとわたしも思っている以上に彼のことを傷つけていただろうけど、そうであるなら良かったと、握手をしてわかれた。

 

今は、まあ、ムラはあるけれど調子良さそうにのんびりと彼は生きているみたいだ。ときどき連絡をとる。ただ、今でもネットには当時の事件についてデマが溢れているし、ときどき誰かがTwitterでその事件のリンクを貼ってつぶやく。彼が今も夜中に震えながら携帯を見ているのかは知らないけれど、でもきっと、目につくだろう。終わることは多分ない。

 

    * * *

 

余談になるけれど、殺人事件の取材をする時はすでに傷ついている人をできるだけ傷つけないように、できるだけ失礼ないようにと気をつかう。報道を見ているとそうは感じられないだろうし、実際に「おい、この報道はないやんけ!」と思う時もあるから、取材者にも媒体にもよるとは思う。当時と現在とでは違うというのもあるかもしれない。
ただわたしが現場や裁判所にいた時は、媒体をこえて「この解釈はこれで合っているだろうか、決めつけてないだろうか」と確認しあったし、被害者家族の方々が何度もみずから心のうちを語ってくださり「どうしたらもっと正確に世間に伝えられるだろうか」と記者と相談を重ねることもあった。

本当に酷い、と思う報道もある。
一方で、誠実な取材がそうと伝わらないこともある。
それについてはどうしたらいいかわからないし、多くの方がいろいろと考え続けて行動し続けて、今がある。ただ、自分の目で見ていないことについては断定して広めないようにしたいとは、思っています。

 

(ありがとうございました。彼には書く許可は取っています。でも、あとで非公開にするかもしれません)

 

こちらより転載しました

はじめての仕事は、殺人事件の取材でした。

社会にでてはじめての仕事は、殺人事件の取材でした。そんなときのことを、2杯のお酒とホットカルピスで思い出しました。

ひどい命の落とし方をした女の子のご家族が加害者をみつめる姿を取材しました。(たぶん)冤罪で死刑になった人もいました。容疑者の家族とお付き合いもしました。その人を騙せと言われたこともありました。

はじめて本気で好きになった人のことも話しました。2杯のお酒とホットカルピス片手に、「ぐさっときたことは、良いことも悪いことも、きっと一生忘れないね」と話し合いました。話を聞いてくれ、言葉を返してくれた友人。共有できるのが、生きてることの幸せなのかも。

いまは幸せがまわりにたくさんあって、誠実だったりちょっぴり嘘をついたりもしながら、好きなことをして笑ってます。きっと誰にでも、人生振り返ってみて、映画みたいなこと演劇みたいなことそんなものにはならないことがあると思います。どれもが目の前をざあっと過ぎていくから、みんな人を憎んだり愛したりしてるんだなって思いました。

それは、きょう話を聞いてくれ、言葉を返してくれた人がいたから思ったので、そんな時間がもてることに、ありがとう。2杯のお酒とホットカルピス。3段重ねのパンケーキ。明日はでぶです。

 

3.11後に双葉町へ行って

3月11日が過ぎた。震災と事故から5年目。備忘録的に。

放射能汚染区域に入った時の話を。

といっても、手の中で鳴り響くガイガーカウンターをとっさに放り投げた恐怖は、絶対に一生忘れられないのだけれど。

 

2011年3月11日が過ぎたしばらく後、初めて「被災地」と呼ばれるところに行ったのは、東電の社員さんと。すでに放射能漏れで立入り禁止区域となっていた「双葉町」でした。福島第一原子力発電所の5号機と6号機のある町です。現在も「帰還困難区域」に指定されています。

 ・ ・ ・

3月11日当日は、ある女友達が、双葉町から東京へと逃げてきました。

文字通り、逃げてきました。

上司に「若い人は行きなさい」と言われ、混沌のなか、結果的にはその場にいた患者たちを置いて、逃げてきたそうです。

そんな話を友人がとても明るく笑いながらするので、こんなに淋しくて辛くて痛い笑顔があるのかーと、手作りのアボカドまぐろ丼をいただきながら、ただ彼女の家で頷くことしかできませんでした。

 ・ ・ ・

 

それからずっと心のどこかにあった双葉町へ。

放射能の被害もまだ、情報が錯綜しており、「もしかしたら健康な子どもは産めなくなるかもしれない」と思いながらも、「行こう」と決めました。

「行く」と告げると女友達は「私はまだ行く勇気が持てないけど、行ってらっしゃい」とまた明るく返事をくれました。

  

双葉町へは、友人の車で向かいました。彼は東電の社員さんです。放射能のプロです。

「今回の事故、どう思う?」と聞かれて、曖昧な返事しかできなかったな。

双葉町の入り口で、簡易の防護服とガイガーカウンターと注意事項を受け取り、敷地内へ入りました。

うっすい白い防護服と、青いビニールの靴カバー。

滞在時間は5時間。それ以内なら、放射能を浴びても大丈夫……だろうです。

ちなみに、日本で女性に許されている放射能の規定値は、男性の3分の1。男性より放射能に弱い、のです。

車の中だと放射能が入ってこないから、ちょっと安心です。

町へ向かう途中、野生の牛の群れとすれ違いました。

痩せていて、人間よりも数が多いからかな、こちらに対してものともせず、ゆっくり歩いてどこかへ行きました。

町中へ入ると、木造の建物は壊れ、日常道具は道に散乱し、でも、人影はありません。

しばらく進んでやっと二人だけ、住人だったらしき人が白い防護服を着てマスクをして、荷物を整理していました。

海の近くまで行きました。ニュースでもよく流れた双葉厚生病院。テレビの中では屋上以外ほとんど沈んでいた建物も、水が引いてただの普通の建物でした。コンクリートの建物は、海辺でも壊れてもいません。

その日はすごくよく晴れていて、青空の下で「綺麗な町だなー」と思いました。

津波直後にはきっと泥まみれだっただろうに、雨で流されて、清潔そうな外観の建物たち。

今にも誰かが玄関から「あら」と出てきてもおかしくないのに、自分たち以外誰もいないのが不思議です。

車が止まり、友人が、外に出ようとしました。

私が「(防護)服、着ないの?」と言うと、

彼は「数時間なら大丈夫だよ」とドアを開けました。

瞬間、「ピピピピピピピピ」とガイガーカウンターが大きな悲鳴をあげ

思わず放り投げました。

怖かった。

防護服に身を包んで、建物の中へ入りました。

建物の中は汚染されていません。

みるみるガイガーカウンターの数値が下がります。

そこでやっと、ほっとして、マスクを外しました。

今思えば、平静なフリをしようと、あえてマスクを外したのかもしれません。

どっと疲れてソファに座り込んだことを覚えています。

そして撤退時間になった頃、海へ行きました。

『快水浴場百選認定』。津波がやって来た海。

津波が襲ってきた海岸に、ぽつりぽつりと海を見つめる人の姿がまばらに。

「きっとみんな、帰る前に海を見にきたんだね」

「みんな、おんなじことを考えるんだね」

きっとこの人たちは、今日5時間の滞在を終えたら、次はいつ自分の町に来られるかわからない人たちなんだな。

双葉町に住んだこともなく、津波に追いかけられてもいない私は、なんだか邪魔をしてはいけない気がして、車を降りずに海をUターンしました。

綺麗な晴れた青い空と青い海。

そこにただ人だけがいない風景。

絶対に忘れないと思います。

なにも知らなければ平和にみえる静かな風景。

けれども、

手の中で鳴り響くガイガーカウンター

上がり続けるメーターの数値。

一生忘れないし、忘れられない。

あんなに静かで怖くて、でも綺麗だった町は他に体験したことがない。

もっと泥臭くて、人が笑ってて、自然がうるさいくらいの、そんな町に、いつまたなるのかなあ。

あれから、双葉町から逃げてきた友人とは、連絡が取れなくなりました。

今、元気だろうか。

3月11日のことではないけれど、毎年、そんな風景を思い出します。

 

〔転載元〕

http://momocom.org/archives/116