おなかが空いたら足から食べて

ライターによるいろいろなことです

ナンパ師の彼と自傷行為。ポン酢の瓶は暴力か優しさか。

多くのナンパ師が言うように「ナンパは自傷行為」というのには同意だ。ナンパの自傷とは、生きている実感のため、古い傷をなぞり新しい傷をつけるのだと、なにかの本で読んだ。おそらくわたしが会ったナンパ師も、ナンパをすることで自傷していた。ナンパのやり方を若い男の子たちに教えることで、彼らの自傷行為を手助け、彼らの古い傷を癒し、癒すふりをしながら当たらしい傷をつけていた。
 

数年前の池袋。

そのナンパ師は、とても魅力的な男性だった。

出会ったのは、友人の美しいイケメンインテリヒモ男の家に遊びに行った時だ。そこにはとても可愛らしい女の子が居合わせていた。「東京についたばかり。わたし、メンヘラなの」とその子は言った。そうだろうなという感じで、その子はうつむき加減で身を小さくしながら、上目遣いであたりを見回し、全身で「愛してほしい」と訴えていた。痛々しいほどに。
そのとなりでひとりの男が微笑んでいた。ひかえめな仕草、あまり動きのない表情、長い前髪に目が隠れ、ときどき首を傾げてはにかんだように笑う。背の高い男性だった。とっさにその邪魔っけな前髪をかきあげてみたいと思うほど魅力的な人だ。素顔を見たい。

「ナンパ師」です。

と彼は名乗った。「ナンパ」という言葉が似合わないほど綺麗な男性だ。表情の変化が薄いので感情が見えない。
美しいヒモ男と綺麗なナンパ師と可愛らしいメンヘラに挟まれ、わたしはヒモ男に「穫れたてのジャガイモをもらったから食べて欲しいな」とバターをかけたほくほくの北海道の男爵芋を振る舞われた。さすがヒモだ。ものすごく安上がりな美味しい料理。もらいものの男爵芋に、マーガリンではなくバターを乗せる。

「最近したナンパの話」と彼は言った。淡々と喋るので、感情が見えない人だ。

年上の女性をナンパして彼女の家にあがり、彼女が求めるままにベッドで彼女を殴り、終わったあとに「腫れてはたいへんだから」と冷蔵庫からポン酢の瓶を持ってきて女性の頬を冷やしてあげたという話だ。

“ポン酢”という、とたんに生活感のある生々しいワードは引力があった。けれど、そのポン酢の瓶で女性の頬を冷やす行為は、優しさなのか、礼儀なのか、ただの物理的対処なのか、優しさのふりをした罠なのか、なんだかわからなかった。

わたしの横で「メンヘラなの」と言った女の子が上目遣いで見つめる。全身からあふれる「わたしもその女になりたい」という願望。まばたきのたびに睫毛の音がしそうなほど、訴えている。そして時々、天然のはちみつリップを小指で唇に塗り、ぷるぷると震わせていた。
ナンパ師は気にもとめていないようすだったけれど、わたしは「その気になればこのナンパ師は彼女を簡単に抱くだろう。そして簡単に捨てるだろう」と予感がしていた。いや、捨てるという概念もないかもしれないくらい、朝のパンの残りくずを窓辺のすずめにあげるような気のなさで、ナンパ師は彼女を抱けるだろう気がした。はじめて会った女性に殴らせることを要求させられるこの男性は。

「そんな感じでした」とお茶を飲むナンパ師。あいかわらず表情はない。

その彼も女の子もついでにヒモの友人も消えそうな雰囲気をまとっているので、わたしは反射的になんとかその場に生命を吹きこもうと、自分の心の扉を意識的に全開にした。そうしないとメンヘラの女の子はきっと自分がなにを望んだのかもわからないまま彼に抱かれるだろうという気がした。そして抱かれたことを良い思い出として、自尊心を慰める満足感とともに、傷ついたことにも気づかず、知らない間に自分を消費するだろう。そりゃ本人達の勝手ではあるけれど、わたしの前で消費はごめんです。だからわたしはその澱んだ欲望たちを打ち消すために健康的に振る舞ったのだけれど、どこかでわかってもいた。わたしが放つ無理やりの生命力や、明るさや、天真爛漫さや、そういった健康的なものが彼を傷つける暴力ともなるだろうことを、直観的にだけど感じてもいた。

わたしが押したり引いたりすると、彼女は簡単にわたしに同調してきた。まばたきは減り、唇を意識しなくなり、顔を崩して笑った。部屋の澱みがひとつとれた気がした。
しかしナンパ師の彼の方は、わたしがなにをしても静かに笑うだけ。こんなに天真爛漫さの押し売りをしたことは人生でそんなに無いぞってくらい押し売った。嘘の天真爛漫さでは彼に届かないこともわかっていたから、天然の天真爛漫さを、自分のなかを探し求めて、かき集めて、その空間に放った。メンヘラの彼女とわたしが仲良くなっていくのを見ながら、彼は最後まで静かに笑っていた。

帰り際。ヒモ男の家から出ると彼女は「銭湯行こうかなあ、お風呂はいりたい」と呟いた。わたしは駅に向かうことにした。ナンパ師の彼は、歩いて自宅に帰るという。
「さようなら」を言おうとすると、彼がマフラーの隙間からじっと私を見つめた。そしてちょっと困ったみたいに眉毛をさげて、小さく笑った。

「きみって、生きてるって感じだね」

諦めたみたいに、吹き出したみたいに言った。はじめて彼が感情を見せたように感じた、瞬間だった。

わたしは彼のその「きみのその態度に免じて僕も心を開いてみようか」というような言い方が頭にきて、大きく元気に「そうですね!生きてますから!」と返した。そうやって放つ健康的な生命力が彼に対する暴力だということもわかっていて、思わず言ってしまった。でも彼はその時はもう感情をひっこめていて、目を細めたままそらした。
たぶん彼は、自分の存在性の薄さをわかってすべて引き受けているんだ。そんな人に生命力をぶつけたって刺さるわけがない。むしろたぶん、刺してはいけない。彼はたぶん刺し傷がついても、わたしに向かって刺し返すことはない。そのまま傷をほおっておくか、もっと別の誰かに傷を向ける。さっきのメンヘラの女の子のような、傷をつけられても文句を言わないだろう人に。
 

 

「ナンパは自傷行為だ」と多くのナンパ師が言う。女性を消費することで、自傷し、生きている実感を得ているのだと。

ちまたにはナンパ師が溢れ、ナンパ塾を開いてナンパ師を増やす光景も多く見かけた。さらにナンパ師たちは「ナンパを教えることは自傷行為に対する心理療法」とまで言ったりもしている。そうかもしれない。男性の自傷行為をなぐさめるため、彼は、若い男性たちにナンパを教える。

しかし傷をなめると血の味がするはずだ。傷の舐め合い。きっとナンパ師の彼はその血を噛み締める。癒しながら、若い男達のコンプレックスを飲み込む行為は、彼自身を自傷しているようにも感じる。
しかも彼の唾液には毒がはいっていて、傷をなめてもらった若い男の子たちはもともとの傷を癒してもらうふりをしながら当たらしい傷をつけられ毒を塗り込まれる。このナンパ師は危険だ。魅力的だけれど、もう、会うこともないだろう、と信じたい。

結局、その後の彼のことは知らない。ナンパを続けているという話もきいた。想像してみるけれど、女性に声をかける彼は爽やかな笑顔でどこか空虚な背景をまとっている、そんな光景しか浮かばなかった。
 

 

最近、仕事で池袋に行くことが多いけれど、駅のなかで声をかけられやすい場所が2ヶ所ほどある(声をやたらかけられやすいファッションもある。なんてわかりやすいんだー)。声をかけて来る人は年齢も雰囲気もまちまちでおそらく20代前半のこともあれば40代以上のこともある。彼らの目的が、金か、ゲームか、ご飯か、暇潰しか、勧誘か、自傷か、なんだか知らないけど、声をかけられるたびまた声をかけている誰かを見かけるたび、あのナンパ師の彼を思い出す。そして、今ここで声をかけてきた人に対して、健康的な生命力という暴力でもって対向していいのかを迷う。

あれから何年も経ち、わたしは生命力以外で彼らのような存在と対することを学んだ。それが良いか悪いかは一概に言えないけれど、とにかく、ほかの手段を知った。
ポン酢の瓶で、殴った女性の頬を冷やした彼。その行為が優しさなのか礼儀なのかただの物理的対処なのか、優しさのふりをした罠なのか、ほかの何かか、確認しなかったわたしには、健康的な生命力で対峙することが暴力だということは気づいていても、そうやって殴った痕を冷やす方法を知らなかった。そもそも冷やす気もなかった。ただ暴力をふるって終わりだ。

今、道行く女性たちを巻き込みながら、ナンパをする男性たちは自傷と折り合おうとしているのかもしれないとふと想像する。これは主語が「男性」だけれど、べつに「女性」でも「無性」でもあると思う、自分の自傷にそうとは気づかれず他人をまきこむことが。まきこまれる方としてはいい迷惑でもある。でも、彼らは自傷を続けたいんだろうか。わからない。
「もしこれが彼の自傷行為だったら」と考えると、声をかけられた時にどう答えればいいのか迷う。今さらだけど、迷う。健康的な生命力の暴力。

 

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